桑畑洋一郎のブログ

自己紹介めいたものはhttps://yoichirokuwa.hatenablog.com/entry/2022/01/21/130841にて。

あえて善行をしないという処世術

今日保育園に息子を送って行ったら、保育室内で息子の同級生らがブロックを投げて遊んでおり。それを見た息子が「そういう遊び方したらダメだろ!」と結構強めの語気で注意する。で、それに続いて、クラス担任の先生も「そういう遊び方したらダメでしょ」と注意。

さらにその後、登園したことを示すシールを出席ノートに貼ろうとしていた息子、別の用途のシールが紛れ込んでいることに気づいて、先生に「違うシールが入ってたよ」と持っていく。

うちの息子、家でも結構そういうところあるし、保育園の先生との面談時にも「友達が良くないことしてたら注意してくれるんですよ」って話を聞いていたので、結構こういう規範的なところが強いタイプなことは知ってたんだけど。目の前で見ると「やるなー」という思いと「放っておけばいいのに」という思いと両面があったりする。

 

 

んで。そういうこと思いながら出勤してて、「しかし俺自身も、『これは見過ごせない』っていうレベルのことが起きた時に対応するし、『別に見過ごしてもいい』レベルのことが起きた時でも、物事や場合によっては対応するなー。んで後者とレベル的には変わらんでも、対応しないものもあるなー」ということにも気づく。

前者だと、例えば俺自身にもかかわってくるような話――スケボーしてて不当に注意されるだとか――だと、「いやそれは変でしょ」って口をはさんだりするような。後者だと、ごみが落ちてるのに気づいたときに拾うだとか、「まあ別に俺がやらなくてもだけどやった方が気持ちいいくらい」の話か。

で、まず、「息子にとって、『友達のブロック遊び』や『違うシール』は、前者なのか後者なのかどっちなんだろう」とか考えたりする。俺から見ると後者レベルの、それもおそらく対応しないケースなんだけど、息子にとっては見過ごせんレベルなのかもな…とか。でもこういう判断が、おそらくうちの息子は他の友達と共通してないんだろうなとも。だからこそ保育園の先生が面談で「注意してくれるんですよ」とわざわざ教えてくれるんだろうし。他の子なら見過ごすけど、息子は見過ごさない。

こういうのっておそらく、小学校に上がっていくと周りから煙たがられる部分もあるとは思うけれど、でも息子が正しいのよね。正しいことをしている人に、「それすると周りが煙たがるからさ」とは言えない。あともう1つ、こういう正しいことって、「先生」だとかしかるべき役割の人がやった方がより煙たがられる可能性は低くなるんだけど、「『しかるべき役割の人』って、なぜ『しかるべき』なの?」なんてことに俺自身が引っかかってしまうので、やはり言えない。「先生が言うことだよそれは」みたいな言い方をするのも、俺自身が内心納得できてないところがあるし言えないわけで。

 

あともう1つ、「俺自身にも、『まあ別に俺がやらなくてもだけどやった方が気持ちいい』の中にも、『実際に対応する』ケースと『結局見過ごす』ケースとがあるけど、それは何なんだろう」とかも考えたり。ごみが落ちてたら拾うってのは結構やるし、車がいなくても赤信号は渡らないとかは最近やるけれど、同レベルのもの、例えば屋外禁煙スペースでタバコ吸ってる人がいてもスルーするし((「同レベルかそれ」って話はあるとは思うけど。))。でもこれって何なんだろうな…というのも考えていくと不思議。

多分俺個人の判断としては、

  1. 他人に影響を与えるようなものではない(=自分の対応で導き出された他人の反応が、怒らせたり、煙たがらせたりといった、人間関係上のリスクにつながることもある)
  2. 実際俺がやらなくても誰かがやるんだろうけど、スルーすると気持ち悪い

といった2点くらいで対応するかどうか決めてるんだろうなーと思うけど。でも息子は息子で何か違う(おそらく1の観点は息子にあまりない)ので、こういう話を息子にしたって伝わんないだろうなーとも思うし。

 

「~すべきだ/すべきじゃない」って規範に基づく行動をすることって、本来は正しいことなんだけども、でもそればっかりでいかないのが世の中だし、だからといって「そればっかりじゃ回らんのよ」って息子(も含めた子ども)に教えるのが正しいことかと言うとそれも違う気がするし。「処世術」「世渡り」って、表向きは本来推奨されることではないけど、本音の部分ではこうなってる…っていう性質のものだなとしみじみ感じたり。処世術を研究対象にするのは楽しいんだけど、真っただ中にいると困る部分が多いなー。