桑畑洋一郎のブログ

自己紹介めいたものはhttps://yoichirokuwa.hatenablog.com/entry/2022/01/21/130841にて。

エイプリルフール

4月1日で新年度開始。エイプリルフールでもある。

エイプリルフールに嘘をつかなくなってもう20年くらい経つかなー…なんて、ネット上で嘘をついて楽しんでる人たちを見ながら思ったり。

エイプリルフールに嘘をつかなくなったのは、嘘か本当か分からなくさせて周囲を困らせることがしばしばあるし、嘘だと理解できるために文脈が共有されてる必要がしばしばあるから。

後者の理由をもう少し説明すると、文脈が共有できてない人からは本当のことだと思われることが結構あるわけだったりする。たとえば大学院生が、「今日から国際信州学院大学に所属することになりました」とか書き込んだら、書き手が院生であるということは知っててもその他の文脈を知らない人は「おめでとう」って言葉を儀礼的にであれ)投げかけてきたりする。

でももちろん、「国際信州学院大学」というのは架空の、ネット上のネタ的存在なわけである。つまりはこの嘘は、「国際信州学院大学=ネタ」って文脈を共有できているからこそ、エイプリルフールの嘘として成立するものなわけである*1

でも当然、こういう文脈を共有できていない人が、この嘘を目にすることもあったりする。そういう人にしてみれば、「国際信州学院大学=ネタ」なんてことは知らないわけで、シンプルに「おめでとうございます」とかそんな言葉を投げかけることに。でも当然そのままにしておくわけにもいかないから、「いやこれ架空の大学で…」とか説明をする必要が出てくる、と。

嘘を「この嘘はこういう意味なんですよ」って説明することの野暮さもあるんだけど。そういうことではなく、文脈を共有できていない人に「この話の文脈はね…」って説明することって、相手に結構な恥ずかしさと疎外感を与えることになるんじゃないかと思ったりしてて。つまり「ああ、自分は文脈分かってなかったんだ」&「この話で盛り上がれる人たちは文脈共有できてんだ」みたいな思いを抱かせかねない、と。単純に、知らなかったことの恥ずかしさと、仲間外れにされた感が生じるんじゃないかなーと思うわけである。文脈共有できてることは仲間意識の源泉(の1つ)になることって結構あるわけで*2

んでこれが単なる(エイプリルフールの時以外の)嘘や冗談であれば仲間外れ感や疎外感もそこまで生じないのかもなとも思うわけである。嘘をつかれた側や冗談を言われた側が「分かりにくい」「その嘘/冗談つまんねーよ」って普通に言えるんだろうけど。エイプリルフールだと、嘘や冗談にまじめに対応してしまうこと自体が、またさらなる疎外感(文脈の共有できてなさ)を示すことになり、「あいつノリ悪い」みたいに扱われることになりかねない(という不安感が生じる気が)。なので、エイプリルフールだと、嘘をつかれた側は、(仮に「分かりにくい」「つまんねー」って思っててもそれを隠しながら)愛想笑いをしなきゃいけなくなるのでは…とか。

とか考えだしたら、エイプリルフールに乗っかって嘘を言うことが、むやみに他人を傷つけることになりそうな気がしてきてしまい、嘘をつくことがなくなったというわけである(なお普段から全く嘘をつかないかというとそんなことはなく、むしろ普段は気にせず毒にも薬にもならないような嘘はつくんだが)

あと、4月1日は、普通に言ったり書いたりすることが全て嘘と見なされかねないのでその点でも面倒くさい。普通の話でも「何それ。エイプリルフール?」みたいに思われそうで。

*1:もう少し言えば、4月1日=年度初め=異動が生じやすいという文脈もあるんだろう。

*2:と言うより、仲間だから文脈共有できてる感じかも。